痛いのは飛んでいったりしないのよ

仕事中物を運んでいたら、運搬物に手をぶつけてしまった。本当に軽く当たっただけなのに、思いのほか痛い。痛みの走った場所を見ると、以前ガラスで切ってしまった(https://gomokurice.hatenablog.com/entry/2012/02/20/044500)人差し指の第二関節だった。

かれこれ一か月以上経っており、すっかり傷口はふさがっている。注意深く見ないと怪我をしたかどうかさえ分からない。しかしぶつけたとき痛かったのは確かにここだし、ガラスでの傷は案外しぶといものなのだなあと感心さえした。

怪我をしたときは周りも心配するし、親身な人ならその後の経過もある程度気にかけてくれる。日が経つにつれ周囲の関心は徐々に薄れていき、やがて残るのはその傷口やかさぶた、本人のみぞ知る鈍い痛みだけだ。傷口がふさがり痕も目立たなくなってくると、いよいよ当の本人さえその怪我のことを忘れてしまう。

だが、そうして本人が忘れてしまっても、意外にも、傷は残っているものだ。
何かの拍子に思い出したようにわずかに痛むそれは、もはや本人ですら「え、まだ」と思ってしまうような過去の痛みである。しかし過去の怪我であっても痛いのは今で、痛みに顔をゆがめると「どうしたの」と声をかけられる。いちいち説明するほどの痛みでもないし、「なんでもないよ、ちょっとぶつけただけ」と返す。そう返して、そっと、今痛いのをなかったことにする。

痛かったこと、辛かったこと、悲しかったこと、一度経験してしまったことは、どうしたって心も体も覚えている。それらをふとした瞬間に思いだして、痛んだり苦しくなったりする。
「なんでもないよ、ちょっとぶつけただけ」
と言われた時、例えばそれが大切な人の口から出た言葉であったなら、果たして私は本当に「ちょっとぶつけただけ」かどうかを見極めることができるのか。実は、昔怪我をしたところがとんでもなく痛んでいるのではないか。そしてそれが分かったところで、自分に何ができるのであろうか。
大切な人のそういう心の動きや痛みに気付いてあげられるように、自分のできうる限り、まっすぐ注意深くその人と接したいものだなあ、とおもった。

指、治るといいなあ。