昨日は父の

誕生日だった。わたしとは24違うから 46歳になるのか、と思い、ふと父の半生に思いを馳せた。私の知らない24年と、私が生まれてからの22年。彼は果たして、どんな思いで昨日を迎え、昨日を終えたのだろう。

 

 

私という子を授かってから少なくとも今日(もしくは私が大阪に出る日)まで、彼は私の存在に縛られて生きてきたはずだ。離婚してからはますますそうだったに違いない。特に進学に際しての金銭的負担は凄まじかっただろうし、家のことを考えるのであれば私は実家を出るべきではなかった。父の「大丈夫だよ」という言葉に甘えて、現実で直面している事態の深刻さを理解しないまま家を出てしまった。最も、実家でぬくぬくと外の世界を知らずに生きてきた当時の私に理解できたかどうかはかなり怪しいが。

昔、父が「〇〇と△△(私と弟)が居なかったら、こんなに頑張って働いてないよ」と言っていたのをよく覚えている。言われたときはとても嬉しかったのだが、今考えてみると私という存在が彼を働かせてしまっていたとも取れる。
そんなことは、子どもを授かった者たちの義務なのかもしれないし、彼らにとってはごく当たり前の行為なのかもしれない。しかしどうしても、私という存在が彼の人生の足かせになっていたのではないかと思わずにはいられないのだ。私がいなければ、彼は彼自身の人生のためだけに日々を生きられたのだし 私の人生のために不本意な負荷を強いられることもなかったのだと。

あるいは、そういった負の要素以上に、私がいることによって生じる 正の要素が存在したのだろうか。プラスマイナスでプラスになっていたのならばいいのだが、いずれにしても今の私の知るところではない(分からないから考えるのをやめるのではなく、ぐるぐると考え続けてしまうのは私の悪い癖だ)。だからといって「私はあなたの人生の足かせにはなっていませんか、あなたの人生をマイナスにしませんでしたか」などと子が親に聞くことがどれだけ親を傷付けるかくらい想像がつくから、このことは生涯父に問うことはないだろう。

ここまで考えてふと、子どもを産めば答えが出るのかもしれない、と唐突に思った。父個人の半生をそっくりそのままなぞることはできないけれど、子を持つ親として彼の半生を掠めとって身を以て感じられたら、何かが分かるかもしれない。

親に支えられて半生を自由に過ごし、子を支えて余生を過ごす。そうやって、世の親子たちは自由の時間をバトンタッチしている。とりあえず、こんなところで落ち着いておこう。