流されるということ

「私って流されやすくて」「あの子ってすぐ流されるよね」

といった具合に、「流される」という性質はしばしば消極的な意味合いで使われる。
先日会った友人もしきりと「流されるのは嫌だ」と主張し、流されることは悪であり死を意味すると言わんばかりの気迫すらあった。

私自身、流されるということに良い悪いの別を感じていない。そもそも流されるという状況は、実際そこまで発生していないと考える。
例えば、昼食にカフェへ行こうかと思っていた矢先「ラーメン行こうぜ!」と同僚に誘われ、まあいいかと思いラーメンを食べに行く。服屋でウインドーショッピングをしていると店員に声をかけられ、気が付けば紙袋を手に提げ退店していた。思ってもみない相手から告白され、熱意に負けて交際を承諾してしまった。
大なり小なり「流された」とされる状況であるが、いずれも最終的には「自らその選択に同意している」はずである。流されることを良しとした、流されることを選んだ、それはつまり自分で選んでいることと同義なのでは? 流されてしまったという人間に、私はいつもそう問うようにしている。結局のところ、人は選んでその状況を受け入れているのだ。

となれば自身の選んだ道に善悪もへったくれもないと思うのだが、冒頭の友人は納得していないようだった。掘り下げて聞いてみると、彼の考える「流される」とは「自分が全く納得いかないにも関わらず、相手や状況に身を委ねること。あるいは状況に改善の余地があるのに気付かぬふりをして現状を維持してしまうこと」だと判明した。その定義において彼は過去に流されており、苦労したことがあったということらしい。

この定義のもとで「流されない」ようにする、つまり「自分の納得いかないことは受け入れない。起こってしまった問題を見過ごさず、現状を打破しようとする」のは、とても大変なことだ。流されまいとすれば周囲と自分との間で必ず摩擦は起こるだろうし、雰囲気や居心地が悪くなったりする可能性もある。
それでもなお、彼は「流されてはいけない」と、自身に言い聞かせるように話していた。流されず、自分の信じた通りにやってきた人間の声に、後悔の色は微塵も感じられなかった。こういう生き方をしてみたいと、率直に憧れた。

私は絶対にこうしたいと決めて突き進むのも、流れに身を任せなるようになると生きるのも自身の選択である。ただ、自分を殺して不条理を受け入れるような「流される」生き方は、自分の意思や感情があるうちはなるべくせず自分に素直でありたいと思った。